信じたくない!
遠くで、荒々しい怒鳴り声が聞こえてきた。尋常じゃないと思いながら、その声のする方へ振り向いた。その声はどんどん近付いてくる。
さっきまで私たちがいたガラスドア向こうの廊下に、人影が映った。
「すみません! これ以上は無理です!」
あ、笹崎さんだ。
「いやよ!」
それと、女の人……髪を振り乱し、切羽詰まった様子だ。それに、黒い着物を着ている。
その周りにも、白衣を着た人が数人、彼女を取り囲むように……ううん、押さえ付けるように群がっている。
なに? 何があったの?
ふと、秋路に視線を戻すと、やっぱり秋路も困惑した顔を隠せないでいた。
そう言えば、秋路も礼服を着ている……黒いネクタイ……あの人と何か、関係あるのかな。
考えている間にも、女の人はどんどん周りを押しのけて進んでくる。
「お願いします! 今日はお引き取りください!」
笹崎さんの声と同時に、ぐいっと肩を掴まれた。
「え?」
見れば秋路が、更に深刻な表情をして、私を後ろ手に隠す。
「沙織、すぐに鎮静剤を二本用意して」
「はい!」
え? 鎮静剤? なに? え、二本?
聞く間もなく、沙織さんが駆け出した。
「お願い! かぐやに会わせて!」
その言葉に、ドクン、と鼓動が高鳴る。
え? 私に……会いたい?
見上げた秋路の顔色は、どんどん蒼白になって行くのが解る。
あの人は、誰?
そう聞きたくても、秋路にそれを聞く隙がない。
「規則ですから!」
「そんなのもう関係ない! いるんでしょ?! かぐや! かぐや!」
緊迫した声に、私はギュッと秋路の服の裾を握った。手が震える。
今、何が起きているの?
「かぐや!」
たぶん、私は彼女が誰なのか、解っていると思う。でも、確認する事が出来ない。
――怖い…………知るのが、怖い。
そう思った。
すると、秋路が、裾を握る私の手を、握り締めてくれた。
「大丈夫だから……」
そう、私を見る事なく呟く。まっすぐに、取り乱す彼女を見つめて、ごくりと息を飲んだのがわかった。
「かぐやぁ!」
泣き叫ぶ声が、悲痛に私の胸をえぐり込んできて、動悸が加速していく。
苦しい……どうして……こんなに、苦しいの?!
今度は、ギュッと瞼を閉じた。
「先生?!」
彼女が、秋路の姿を見つけたんだと解った。荒々しくドアが開き、人の気配がたくさん近付いてくるのを感じる。
私は、恐る恐る目を開けて、秋路の傍らから、様子を窺い見た。
「……あ……」
はっきりとした輪郭が重なった訳じゃないけど、見覚えのある栗色の髪……緩やかなウェーブ……大きな瞳。年をとったと言っても、面影を失わない顔立ち。私の記憶の中の残像がフラッシュバックする。
重なる秋路の手が、更に強くなった。
彼女は、秋路の後ろにいる私に気が付いた。目があって、私の中に懐かしさがこみ上げる。彼女も私を見て、潤んだ瞳を隠さず、何かを言いたげに口を開こうとしている。
今は、さっきのように取り乱すことはなかった。
わらわらと、笹崎さんを含めて数人が、息を飲んで私たちを取り囲む。
「今日は、ご遠慮していただくはずでは……?」
秋路が、静かに重い声を落とした。彼女は、私から秋路へと視線を移す。
「ええ、そのつもりでした……だけど、どうしても我慢できなくて」
「それでは困ります。あなたの意志だけを組取る訳にはいかないと申し上げたはずです」
「私たちがどんなにこの日を、どんなに待ちわびたか! あなたたちには解るの?!」
「解ります」
「ふざけないで! 何が解るのよ!」
言いざま、彼女は秋路の胸倉を掴み、揺らした。その振動が、私にも伝わる。
「ねぇ、後ろにいるの、かぐやなんでしょ? ちゃんと顔を見せて、お願い……先生、隠さないで……お願い」
どうしよう……どんどん震えて、自分でも収まりが効かない。
本当に、もう……立ってるのが、やっとなんだけど……彼女の震えまでも伝わって、私の頭を真っ白にする。
「かぐや……なのね?」
秋路が、今一度ギュッと私の手を握り締めた後、ゆっくりと離した。そして、彼女から一歩、後退り、私の両肩をしっかりと掴んで、目の前に立たせた。
すると、彼女が、愛しそうに私の両頬を撫でるように包み込んだ。
彼女の唇が震え、目に涙をいっぱい浮かべて……何かを言おうとしてくれているのは解るけど、言葉が出て来ないらしい。
代わりに、秋路の声が耳の奥に滑り込んできた。
「君の母親の……有馬恭さんだ」
――ああ、やっぱり。
誰なのかわかってた。だけど、思ったほどの衝撃はない。どこかで感じていたから……もしかしたら、恭なんじゃないかって。
でも、私が聞きたいのはそれじゃない。
私が今……聞きたいのは……隆哉の事。
今、こうして恭は会いに来てくれた。だけど、隆哉はどこにいるの? 勿論、恭に会えた事は嬉しいし、困惑するけど仕方のないこと。
でも、もしかしたら、隆哉もここに……いるんじゃないの?
「ねぇ……きょ……」
あ、ダメ……名前で呼んじゃ、ダメだよね……。
「お、お母、さん?」
そう呼んだ途端、更に恭は全身を震わせた。
相手が違うと、こんなにも言い難い言葉だなんて知らなかった。不自然な言い方だったかも……こんな時なのに、そんな事が気になるなんて、おかしい、かな。
でも、聞かなきゃ……知りたい事、自分で聞かなきゃ……。
「隆……」
ううん、違う……隆哉って呼んじゃダメ……でも、言えるかな。少し不安。
「今は、やめておけ」
秋路が静かに言う。
私が何を聞こうとしているのかわかったみたい。私は、秋路を見やり、首を横に振る。
「また今度でもいいだろう。今日はこれで……」
「でも、聞きたい」
そう言い、私は再び恭を見やった。
秋路は、私が取り乱すと思ったのかもしれない。私が、隆哉の事を好きだったって事も知ってるのかもしれない。
だから、止めたいんだ……もっと、心の準備が出来るまで?
だけど、これでも受け入れる覚悟はしてきたつもりだもん……隆哉への想いを、ここで断ち切れるなら、なおさら会うべきかもしれないんだもん。
「お……お父、さんは……来て、ないの?」
私は両拳を握り、やっとの思いで声に出した。
お父さん……本当はそんな風に呼びたくない、そう思っていると、思いもよらぬ恭の反応に私は驚きを隠せなかった。
恭は、私の言葉を聞いて、更に大粒の涙を流した。
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
なに? なんでそんなに泣くの? 私はただ、出来れば隆哉に会いたい……会わせて欲しい、そう思ってるだけなのに……だから聞いただけ。
「ごめんね、かぐや……お父さんには、会わせられない」
何、言ってるの?
どうして? どうして隆哉に会えないの? え……会わせられない?
意味が解らない……なんなの?
もしかして、隆哉の記憶があって、私の事を覚えてるとか? でも、だったら結婚してないよね……それとも思い出した? だから離婚したとか? だから会わせられない?
やだ、なに? 憶測ばかりじゃ何も解決できない。
こんなんじゃ、諦められないよ?!
「ごめんね……かぐ、や……お父……お、お父さん……は…………だの」
「え?」
かすかに語尾が震えたけど、確かに言ったはずだった。周りの静寂が増しているのに、聞き取れなかった。
一瞬で、鼓動の高鳴りが消え、止まった気がした。息をする事さえ忘れて、頭の中が茫然とする。そして、ゆっくりと、私の心臓が動き出したようだった。
身体全体が脈を打っているみたいで――……うるさい。
私は、何かを塞ぎたかったのかもしれない。自分の時を止める事で、耳が勝手に、恭の声を遮断したのかもしれない。
「今――……なんて?」
恐る恐る、呟いた。
誰もが恭の言葉が聞こえたはずだった。だって、みんなすぐに私から視線を外したから……なのに、私だけ……恭の言葉が……言ったはずの言葉が、すんなり入ってこなかった。
青空が嘘のように、ここだけ冷え切った空気が流れているようだった。沈黙が続き、私と恭の間を、風が擦り抜ける。
なんでみんな、そんなに悲しい顔するのよ。
なんで……なんで?!
恭は、もう耐えきれない悲しみの中にいるようで、立っていられずにしゃがみ込んでしまった。
大きな声で泣く恭……肩が震えて、身体が震えて……ただ、泣き続ける。
「お願い……嘘だって……言って」
だけど、恭は泣くばかりで、顔を上げることすらできないみたいだった。
笹崎さんが恭の両肩を支え、立ち上がらせる。ふらふらな足で、恭は身体を支えていた。
その時、遠くから沙織さんが走ってくるのが見えた。息を切らして駆け寄ると、手に持っていた物を一つ、笹崎さんに渡した。
そして、もう一つを、後ろにいる秋路に渡す。
それらの行動を目で追いながらも、私の身体は動かなかった。硬直しきって、まるで金縛りにあったみたい。
目の前で、恭の昂る神経を緩和させようと、笹崎さんが鎮静剤を打った。
徐々に、その意識が消えいくようで、懸命に私を見流しながらも、その口元は「ごめんね」と呟いていた。
「違う! 聞きたいのはそんなんじゃない!」
今度は、私が抑えきれない感情に支配されたみたいだった。
笹崎さんが、意識を失った恭を抱え、背中を向ける。
「言ってよ! 嘘だって言ってよっ! 何言ってんの?!」
どんどん遠くなる背中を、必死に目で追った。
自分が自分じゃなくなるみたい。心臓が今にも飛び出しそうなほどに暴れてる。怖い――……感情が止められない。
どんどん暗闇に吸い込まれていくようで、怖い。
何かを悟っていたから?
何かを感じていたから?
その恐怖が……解ってた、から?
だから、恭を見て……震えてた?
嬉しいはずの再会が、悪夢に変わる。
「信じないんだから! そんな嘘! 信じないんだからっ!!」
倒れそうなくらい前のめりになる身体を、秋路が後ろから制止する。両肩が痛い……そう感じるほど、お互いに力が入っていた。
そして――……。
「有馬隆哉は……」
そう切り出した。
すごく辛そうに、物凄く苦しそうに……それでも私は、秋路の腕を振り解こうとしていた。
必死に逃れようとしていた。
「いや! 聞きたくない!」
「聞きたいと言ったのは君だ」
「そうよ、だけど、そんな事を望んでたんじゃない! 私が知りたかったのはそんなんじゃない!」
「それでも、いつかは受け入れなければならないんだ」
「いや!」
「聞け!」
「いやだ!」
「有馬隆哉は死んだんだ!」
心臓がうるさい……身体が重い……息が出来ない。
信じたくない言葉が、無理やり私の中に入って来る。
誰か――……嘘だと言って……。
聞きたいといった。知りたいと思った。だけど、恭の言葉で一気に奈落に落とされた。
信じたくない……信じられない……今更だけど、聞かなきゃよかった!
こんな嘘! 聞かなきゃよかった!
「三日前に交通事故に遭って……」
「いや、聞きたくないの!」
「そのまま、意識を戻す事なく息を引き取った……今日はその葬儀で……」
「いやだ!!」
なにも聞きたくない、なにも聞こえない。
秋路は悪くないって解ってる。だけど、この悲しみをどこにぶつければいいのか解らずに、ただただ秋路の胸に拳をあてた。
何度も何度も……だけど、秋路はなにも抵抗しない。私の恐怖を全部受け止めるように、静かに向き合ってくれてた。
服を掴み、揺らす。
「お願い! 嘘だって言ってよ!!」
その間にも、沙織さんが私の腕を抑え込んだ。
「やだ離して! 絶対に信じないんだから!」
がむしゃらに暴れて、沙織さんの腕を振り解こうとしたけど、今度は秋路がしっかりと私を掴んだ。
「しっかり押さえてくれ、沙織」
「はい」
「いやぁ――――っ! 離して!!」
そう叫ぶ間にも、腕にチクリと痛みが走った。
だんだん、空が霞んでいく。
すると、ふわりと身体全体が温かさに包み込まれた。
秋路が、私を慰めるように、強く、それでいて優しく包み込んでくれている……。
薄れ行く意識の中で、秋路の柔らかな息が耳にかかり、そのまま奥へと声を繋ぐ。
「君に、すごく会いたがっていたのに……何も出来なくて、ごめん」
寂しげに、秋路はそう言った。
そして、その声は涙に震えていた気がする――……。