あれは受験前だった。
***
放課後、予定よりも委員会が長引き、誰もいない教室で帰り支度をしていた。どんよりとしていた空から雨が降り出して、傘を持って来ていなかった事に気付いた。
朝、お母さんに傘を持っていくように言われたのに、そうしなかった事に後悔して、窓から外を眺めたまま、ため息をついた時だった。
「かぐや」
「え?」
もう帰ったと思っていた隆哉が、突然教室のドアを叩き、名前を呼んだ。
なんだろ、まさか、待っててくれたとか? いやいや、有り得ないよね……最後だと思ってたけど隆哉も委員会の仕事でもあったのかな。
「あれ? 隆哉いたんだ……」
少しだけ浮ついた気持ちを隠して言った言葉に、隆哉は少し俯き加減に「待ってた」と、呟いた。耳の奥に雨の音が入り混じって聞こえたから、はっきりとはわからないけど、でも、期待してしまう。
待ってた? 私を? そんな事言われたら……。
「なぁ、お前、どこの高校行くか決めた?」
「え?」
突然、そう聞かれて正直慌てた。まだ決めてなかったせいもあるし「待ってた」って言葉に動揺してた部分もあったから……。
「あ、うん、まぁ……」
そんな曖昧な返事をしたら、隆哉は私に近付いて来て、徐に顔を覗き込んだ。隆哉の視線が、私に向けられてる。真っ直ぐ、目を見て、返事を待ってる。
「どこ?」
「うん……」
近いっつうの。隆哉って、こんなにまつ毛長かったけ。
「教えろって」
どうしよう、まだ、決めてないけど……でも候補はあるんだよね。
「あ、うん……東高……かな?」
「ふぅ〜ん」
東高は男女共学のレベル中くらいの学校。私の成績じゃそこがギリギリラインだって先生にも言われてた。
「た、隆哉はやっぱり佐水高?」
佐水高は県内でもトップレベルの高校だ。隆哉はいつも校内で一桁内をキープしてたから、当然のようにそう聞いた。でも、隆哉は少し視線を外した。
「まだ決めてねぇ」
なんとなく寂しそうに見えたのは気のせいだったのかな。
「なんで? 隆哉なら余裕でしょ? 他に行くとこなんてあるの? 何か将来やりたい事あるとか? 専門の学科があるとこ?」
「いや、別に……考え中、かな」
「考え中? なんでよ、もうすぐ願書出さなきゃなんないのに?」
「お前だって曖昧な返事したくせに」
「うっ……」
もし、隆哉が佐水を受けるなら、私は到底、手が届かない。出来る事なら同じ高校に行きたいって思ってるけど、それは叶わないんだよね。まさか私の為にレベル下げてなんて言えないし……そうだよ、彼女じゃないんだもん。
「かぐや、ちょっと寄り道して行かね?」
「え? どこに?」
「ん、駅前の本屋……」
「良いけど、何買うの?」
「先週、桂木さんの月の満ち欠けを題材にした写真集出たんだ。だから、それ買いに」
「え? 桂木さんの? 良いな、私も欲しい」
「だろ?」
「うん」
「でも、二冊もいらなくね? 俺が買うから貸してやんよ」
「え、悪いよ」
「いいんだって」
そう言って半ば強引に私の腕を引っ張った隆哉と、学校を後にした。
繋がってる手が、熱いんですけど……やだ、ドキドキが伝わっちゃわない?
だけど、離す気もない私がいる……隆哉の温もりをずっと、このまま感じてたいんだもん。
「桂木さんの写真っていいよな。なんか、こう、吸い寄せられる感じっての?」
「う、うん、そうだね」
桂木さんっていうのは、私と隆哉が大好きな写真家だ。綺麗な空を写す人。その人が、今度は夜空を題材にした写真集を発売したって知ってた。少し前に二人で欲しいね、なんて話してたっけ。
でも今は、写真集よりも、隆哉と繋がってる手の方が気になる。
「先月は桂木さんの宇宙の神秘っていう写真集を買ったんだ。それも一緒に貸してやる」
「え、でも」
「遠慮すんなって、な?」
そう言って笑う隆哉。
そんな笑顔を見たら、胸が軋むくらいに苦しいよ。
「ありがと、じゃ、遠慮なく」
だけど、素直になれない……なっちゃいけないんだ……恭に、悪いから……。
「明日持ってきて来てやる」
「うん」
学校を出てから、ずっと二人は繋がってる。隆哉の掌が、私の掌を熱くするんだよ。
このままずっと、繋がっていたい。今くらい、そんなこと思ってても罰は当たらないよね。
だけど、そんな幸せな時間は続かなかった。
私が悪いんだ。私が、隆哉に嘘をついたんだから――……。
つきたくてついたんじゃない……でも結果的にそうなったんだよね。
「ねぇ、かぐや……一緒の高校受けようよ」
そう、恭に言われた。
隆哉から約束の本を二冊受け取った後に、昼休みに屋上に呼び出された。何の話かと思えば……受験の話。
「え、でも」
「だって、本当は隆哉と同じ高校行きたいけど、隆哉は佐水に行くって言うんだもん……」
「え?」
昨日は決めてないって言ってたけど、結局は佐水にしたんだ。
「へぇ、そうなんだ」
「そうなのよ、昨日隆哉に聞いたんだもん。佐水なんかあたしの頭じゃいけないし、辛いけど高校までは同じとこいけないなぁって」
「そ、そうだね、あそこレベル高いもんね」
「でしょ?」
「うん」
「だから、せめて、かぐやとは離れたくない訳よ。だから、同じ高校行こう?」
「ん、まぁ……どこにする気?」
「うん、戸宮がいいなぁって」
「戸宮?」
「そう、女子高だけど、全寮制だし楽しそうでしょ、何より制服がめちゃくちゃ可愛いの」
「制服って、恭……そんな事で決めていいの?」
「だって、東高だとあたしもかぐやもギリギリじゃない? だったら少しくらい余裕あるとこの方が安心っていうか……」
「ん、まぁ、そうなんだけど」
「じゃ、決まり! かぐやはどこか行きたい高校あったの?」
「別にないよ。まだ決めてなかったし」
そんな流れで、私の受験する高校が決まったんだ。でも、よく考えてみれば東高には天文部がないけど、戸宮にはある。
私は手の中にある、隆哉から借りた本をギュッと胸に抱きしめた。
どこかで、隆哉との共通点があれば、それだけで嬉しいから。
そう思ってた。
でも――……受験の日、恭は戸宮には来なかった。
「ごめん! かぐや……ホントごめん!」
そう言って、恭は私に両手を合わせてきたのは、受験が終わってからだ。
「どこ、受けたの?」
「……東高……」
「え? なん、で」
その問いに、恭は渋々と顔を上げ、私を見据えた。
「怒らない?」
「答えによっては」
少しきつい言い方だったかもしれない。でも、一緒に受けようと言って来たのは恭だ。それなりの理由がなくちゃ、やってらんない。
「ん、ごめん……」
「だから、なに?」
催促すると、恭はもじもじとしながら、言い難そうに口を開いた。
「あのね、ん、あのね……実は、あのね」
「あのね、はもういいよ」
「ごめん」
「言って」
「隆哉が……」
隆哉が、なに? どんなふうに関係してくるっての?
「先生が話してるの聞いちゃって……隆哉は佐水を受けるって言ってたけど、東にしたんだって……先生が、隆哉の事を勿体ないなって、話してるの聞いちゃって……それで」
どうしよう……はらわたが煮えくり返るって、こんな感じ?
「それで?」
「それで……願書出す前だったから、慌てて変えちゃって、かぐやに話す間もなくて……」
隆哉が、東高を受けた? 嘘……もし、私が隆哉に言った通りに東にしていれば、同じ高校に行けたかもしれないのに……なのに……。
私の体が震えて止まらない。ギュッと両手拳を握って、止めようとしても止まらない。
なんで、隆哉は東にしたの? 私には何も言ってなかったのに……って、そうだよね。
言う必要、ないよね。
彼女じゃないんだし……でも、天文部のない東に、なんで隆哉は決めたんだろう。
何をどう考えても、結果は変わらない。
恭と隆哉は同じ高校。私は……違う。
その一件からだったと思う。少し隆哉の態度が急変したと感じたのは思い過しではないはず。
別に騙す気はなかった。ただ、恭に高校は一緒の所へ行こうと誘われただけ。裏切られたのは私の方。
だからって、恭を責めても何も始まらないし、変わらないんだ。優柔不断な自分が招いた結果なんだから――……恭を恨むなんてできない。
最終的に決めたのは私自身なんだから。
それから、隆哉とは話してない気がする。
借りたままの写真集も返せないまま――……。