〜 vol :14




 覚悟はできていた。

 でも、心の準備はまだだと思う。いつかはそんな日が来るのだと考えても、やはり心が痛い。

 約束通り、武雄と共に父の病室を訪れた。でも、いつにも増して父の顔を見る事が出来なかった。

 ベッド脇に座る武雄は、いつも通りに会話をしているというのに、私はただ、その後ろに佇んでいるだけだった。

 相変わらず、和菓子の新作の話や得意先の話ばかりが中心だった。武雄に任せて良かったと父が笑う。

「今日、母さんは来ないのか?」 

「ええ、お義母さんは着付けの稽古があるからって」

 母は、いつもと違った事をして心配かけまいとしている。

「そうか、そういえばそうだったな」

 定休日に母が着付け教室へ行くのは決まっている事だった。父はそれを知っているはずなのに、毎回聞くのは、やはり寂しいのだろうか。

「武雄君も、せっかくの定休日なのに、いつも来てもらってすまないな」

 言いながら、私の様子を窺うように、チラチラと見ている父の視線にも気付いていた。

「何?」

 ぶっきらぼうに私が言うと、父は視線を逸らしながら言った。

「いや……いつも無愛想だけど、今日はまた一段と、と思ってな……何かあったのか?」

 心配するなら私にしっかり向き合って言って欲しい。

 大事なことだけは勝手にするくせに、肝心な時は私から目を背ける。でも、今日ばかりは、そんな憎まれ口をたたく気にはなれなかった。

 だからとは言い切れないが、私は自分でも驚く事を口にした。

『少しでも早く喜んでもらえるように、幸せな時を長く過ごしてもらえるように』 

 武雄が、あんなことを言うからだ。 

「子供ができた」

 当然、面食らったのは父だけではない。武雄もまた、驚いて私を見つめた。

「本当か?」

 恐る恐るといった感じに父が問う。私は引っ込みがつかないままに頷いていた。

「いやぁ、おめでとう武雄君!」

 そう言って父は武雄の手を取り喜んだ。

 また武雄……そう思うも、こんな喜んでくれるとは思わなかった父を見ていると、何も言えなかった。

 そう……嘘だって事も。

「予定日はいつだ?」

「まだ、分かったばかりだし」

「そうかそうか、俺もとうとうお爺ちゃんか」

 嬉しそうにはにかむ父の頬が赤い。

「これで浜村も安泰だ。こりゃ、まだまだ死ねないな」

 浜村、と聞いてチクリと心が軋んだ。

 父の思考のどこを切っても、やはり浜村なのだと思い知る。

 私はぐっと、かばんを持つ手を強く握った。



      ◇



「何であんな嘘を?」

 帰りの車中、当然のように武雄は聞いてきた。

「嘘? 昨日調べたのよ」

 お互いに前を見据えたまま会話をする。どうせ嘘だと分かっているのだから、こんな事で口論をする気はなかった。

  「身に覚えない」

 面倒くさいと思いながらも、私は「疑ってるの?」と返した。そんな私の横で、武雄が大きく溜息を吐いたのがわかった。

「俺、精子無力症だから」

「え?」

 武雄の言葉に驚いた私は、思わず息をのみ見つめた。そこには、心持ち重そうな武雄の横顔がある。

「調べたんだ」

「調べたって……?」

 一息おいて、武雄が話し始めた。

「俺、子供が出来ないのが辛かった。だからまず、自分が検査して異常がなかったら、紫音に行ってもらおうと思ってたんだ。でも、原因は自分だった……子供の頃に高熱出したか、おたふくにかかったからだろうって医者に言われた。だから、精子が作れても極端にその運動能力なくて、妊娠させるのは難しいって」

「いつ……」

「去年の夏、かな……でも、店もあったし、治療する時間もないから、そのまま……こういう事は夫婦で向き合うものなんだろうけど……」

 もう一度、武雄は小さく溜息を吐きだすと、道路脇に車を止めた。

「俺、友達と約束あって飲みに行くから……紫音はここから乗って帰って」

「え、友達とって」

「遅くなるかもしれないから、先に寝てていいよ」

 そう言って武雄は車を降りると、一人黙々と歩きだした。

 その背中が、なんだか寂しそうで、私のせいだと言っているみたいだった。

 もっと責めてくれればいいのに……そう思うも、どうせ上手くいってないし、このままもっと関係が拗れてもいいような気もした。だから私は、それ以上引き留める事はしないで、運転席に身を移し替えると、そのまま武雄を抜いて家路へと向かった。

 友達と約束があると言っていたけれど、たぶん嘘だろう。

 たまにだが、定休日じゃない日でも、ひと通りの仕事を終えた武雄は、一人で近くの居酒屋へ出かける事があった。

 きっと、今日もそこにいる。

 案の定、夜も更けた頃に電話が鳴る。武雄が飲みに行く度の決まり事だ。

 店のママから「飲みすぎて寝ている」と連絡が入る。

 いつものように連絡を受けた私は、渋々ながら雪道に車を走らせ武雄を迎えに出た。

「いつもすみません」

 頭を下げながら、私はいつも店に入る。

「あら、いいのよ、こっちこそいつも迎えに来てもらって悪いわね」

 煙草を吹かしながら、しゃがれた声で店のママがカウンターの中から言った。

 派手なワンピースにセミロングのパーマ、その前髪だけを赤く染めている。釣り目の瞼の青いシャドーが真っ先に飛び込んでくる厚化粧だけど、見た目ほどきつい人ではない。

 いつもはこの時間でも賑わう店に、今日は武雄を含めて客が二人。珍しいと思いながらも、私はカウンターに眠りこけている武雄に近付き、肩を揺らし起こした。

「もう、飲み過ぎ」

「何かあったの? 今日の武ちゃん、荒れてるみたいだった」

「いえ、別に」

「ま、いいけど。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うしね」

 はは、っと笑いながら、ママは目の前のロックグラスを空けた。

 何度揺らしても、なかなか起きようとはしない武雄に、溜め息を一つ零した時だった。

 武雄から五つほど椅子を挟んだ場所に他の客がいる事は知っていた。その席から、視線を感じた私は、その先を何気なしに見流した。

 そこにいたのは、ヒゲ面の男。

 男は、私から早々に視線を逸らした。

 変な人、と少し首を傾げながらも、何もなかったように私は、武雄の肩に手を乗せ揺らそうと思った時だった。

 私の頭の中に古い記憶が蘇り、鼓動が激しく一度脈を打った。恐ろしいほどの動悸に煽られ、再び、私はカウンターに座る男を凝視した。

 男もまた酒の入ったグラスを口にしたまま、驚きの表情で私を見ている。

 暫らく時が止まったような時間に思わず息を呑んだ。

 その男の名を、一瞬呼びかけそうになって慌てて俯き、武雄の腕を自分の肩に回し抱えた。

「あ、大丈夫?」

「ええ、ありがとうございます」

 そう言って、私はおぼつかない足取りの武雄を急いで店から出し、やっとの思いで助手席に乗せた。

 しかし、ドアを閉める手は震えている。

 まさかとは思いながらも、この震えの正体はわかっていた。それが寒さのせいなどではなく、心の震えなのだという事を。

 あれは……紛れもなく義孝だった。

 愛した男を見間違えるはずがない。でも、私は逃げたのだ。

 あの場所から。

 他の人と結婚した私を見て欲しくはなかった。今の私を……見てほしくはなかった。あんなに待ち焦がれた人だというのに、いざとなると怖かった。

 逢いたいと思いながらも、恋しいと感じながらも……私は逃げたのだ。

「こんなに近くにいたなんて……」

 私は白い息を吐きだし、小さく呟いた。

 その時だ。

 後方で店のドアが開いた。店に客は一人、きっと義孝だ。

 私は思わず身を固め、気付かれていませんように、と願った。

 だが、私が気付いたのだから義孝が気付かないはずがない。義孝は私を追って店を出てきたらしい。

「紫音……紫音だろう」

 私は懐かしいその声に、すぐには振り向く事が出来なかった。震えが止まらない。心に引き裂かれそうな痛みが走る。

「俺だよ、義孝……」

 わかってる、わかってるのよ。

 そう思いながらも、私はまだ義孝に背を向けていた。

「今……幸せか?」

 震えた義孝の声が、心に重くのしかかった瞬間だった。

 幸せかと聞かれて、そうだと答えてしまえば済んだ事なのかもしれない。でも、見る見るうちに涙があふれ出る現実が、自分ではどうにもならなかった。

「どうして……私を置いて行ったの?」

 そう私は振り返らずに呟いてしまっていた。聞いてはいけない事なのだとわかっているのに、聞かずにはいられなかった。

「違うっ!」

 違う? 違うって何が?

 義孝が慌てて私の言葉を否定したものだから、その意味を知りたくて、思わず私は振りかえってしまった。

 そんな私の顔を見て義孝は、面食らったようだった。

 幸せかと聞いた女が泣いているのだから、義孝は動揺を隠しきれなかったのだろう。

「何が違うの? あなたはお母さんを選んだ。私はお父さんを選んだ。所詮、私達は若かったのよ!」

 ごめんなさい。

 私は、他の人と結婚してしまった事を心の中で詫びていた。

 そして、今にも義孝の胸に飛び込んでしまいたい気持ちを必死で押さえ込むように、突き放した態度で叫んだ。

「愛なんて薄っぺらい、そんなものよ!」

「だったら、どうして泣いてるんだ?」

 けれど、義孝は昔と変わらない優しい声で、私の心をこじ開けようとしてくる。

「わからない……わからない……」

 そう言った私に、義孝は一歩ずつ近付いてきた。

「来ないでよ」

 私は小刻みに首を横に振り、泣きながら後退した。これ以上近付かれたら、義孝に飛び込んでしまいそうな自分が怖かった。

 でも、心のどこかでは、もう一度、思いきり抱しめられたい自分がいるのだと知っている。








    







               

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