〜 vol :16




「紫音、おめでとう」

 客足が途絶えた午後、店先に並んで注文の品を梱包をしている母が、嬉しそうに私の肘を突いてきた。

「何が?」

「あら、子供よ、子供。お父さんが嬉しそうに教えてくれたわ。ああ、私もとうとうお婆ちゃんね」

 そう言って笑う母に、嘘だと言えない。はっきり言って、すっかり忘れていた嘘だ。そんな嘘よりも、義孝に再会できた事の方が、私にとっては重大だった。

「そうね」

 そっけない返事をしながらも上の空で、何も手に付かなかった。母が続けて「何か月? いつ生まれるの? 男の子と女の子だとどっちがいいかしら」等とはしゃいでいるが、どうでもいい。

 私が聞きたい言葉は、それじゃない。

『ねぇ、どうして義孝が来てくれていた事を、教えてくれなかったの』

 喜びに笑顔を浮かべる母の横顔を見ると、その言葉が、どうしても声にはならなかった。

 義孝に出会えた日は、おとなしく酔いつぶれた武雄を連れて家に戻ったが、それからというもの、私の心情は穏やかではなかった。

 義孝がずっと私を待っていてくれた事に嬉しさが込み上げる。でも、私を迎えに来てくれていた事を知った時には、悲しみが襲った。

 ずっと私を……そう思うと、待っていられなかった自分が憎かった。結婚を強引に勧め、病気になった父が憎い。味方をしてくれなかった母さえも、そして武雄も。

 筋違いだという事は解っている。それでも、誰かを憎まずにはいられない。この気持ちが落ち着いてはくれない。

 再会してしまう事で、こんなにも苦しく胸の高鳴りが増すのだと知ってしまった。どんなに、今の生活に目を向けようにも、押さえられる感情ではない。

 それからも私は、幾日も眠れぬ夜を過ごしていた。どんな時も、頭の中は義孝の事でいっぱいだった。

 今、何してるだろう。一人でちゃんと食べているだろうか。

 そう、あの頃より義孝を求める心が日に日に深くなっている気がする。そして、私の全てが義孝に埋め尽くされていると感じていた。

 そんな心情を、武雄は知る由もなく、変わらず職場に立っている。

 いつになく、武雄の目を見つめる事が出来ない。厨房を行き来する度に、息が詰まりそうになる。

 武雄は何かを話したいらしく、そんな素振りを見せるものの、私は気付かない振りをして店に戻るようになった。

 どうしよう……どうしたらいいの?

 誰にも聞けない言葉がもどかしかった。そんな状況で仕事が出来るはずもなく、私は客の名前を間違えたり、釣銭を間違えたり、今まではなかった失敗ばかりを繰り返した。

「何? 体調でも悪いの?」

 母が私を気遣ってくれる。

「ううん、何でもない」

「そう? 今は大事な時期なんだから、少しでも疲れたら休みなさいね」

「うん」

 私はまだ、秘密をもったままだった。母は、私が妊娠していると信じている。

 後ろめたい気持ちがあるのに、どうしても言い出せない。

「お父さんね、また病状が良くなったみたいなのよ。やっぱり気の持ちようね。病気なんか治っちゃいそうな勢いなんだもの」

 嬉しそうに話す母に誰が言えるの?

 それにも増して父に、今更嘘だったなんて言ったら、きっと壊れてしまう気がする。或いは……そう考えると怖い。憎いはずの父なのに、居なくなると思うと怖い。

 でも、そう仕向けてしまったのは私だ。嘘をついてしまった時点で、また嘘の上塗りをする羽目になるのだ。

 だからと言って、落ち込んでしまうと解っている父を思うと、やはり言えない。

「紫音……子供、頑張ってみないか?」

 そう言って、武雄は頻繁に私を求めてくるようになった。

 嘘を事実にするために……。

 武雄は子供を作るのは難しいと言った。でも、ゼロではないと言う。出来るだけ頑張って子供が出来るように努力しているらしい。

 誰に聞いてきたのか、食生活を改善しようと言い出したり、体力作りと言っては毎朝ジョギングまで始めた。

 いくら、そんな事で簡単に治るはずがない、と言っても、物は試しだと言って聞かなかった。

「病院へ行っている暇はないからな」

 そう理由をつけて、毛嫌いしていたはずのサプリメントにまで手を出したのだ。そこまでして子供を欲しがる理由は、やはり父の為だろうか。

 どこまでお人好し……そんなの優しさじゃない。私が欲しい優しさは……そこまで思って、いつも私は自分の心を塞ぐ。

 武雄を見る度に、義孝と比べてしまうのだ。

 でも、そんなに頑張っている武雄の為だからと言って、私は一切そんな気になれなかった。そして私は、いつも言い訳を探す。

「ごめん、今日はちょっと……」

 もう既に言い訳は出尽くした。いつまでも生理が通るはずもない。頭痛も腹痛も、いつまでも風邪では通せない。

 違う、違う……悪いのは武雄じゃない。わかっているけど、私には真実を吐きだす勇気もなかった。

 これではいけないと思う。でもどうしても、武雄に身を任せる踏ん切りがつかない。父よりも先に、私が壊れそうなほどに、義孝を求めている事を否定できないのだから――。

 きっと武雄も感じているはず。なのに、今まで避けている事を責めなかった。

 そう、今までは……。

 その日はいつになく遅く、翌日の仕事の下準備を終えた武雄が部屋に戻ってきた。心なしかいつもより機嫌が悪いと感じる。でも、それは私の心配する範囲ではないと言ったら、薄情だろうか。

 大きなため息を吐きだして、武雄は風呂上がりで濡れた頭を拭きながらベッドに腰かけた。

「なぁ、どうするんだ?」

 鏡に向かって髪を梳かしていた私の背中に、視線が刺さる。

「……何を?」

「いつまでも嘘はつけないだろう? でも本当の事を話したらお義父さん……」

「解ってる……でも」

「でも、何だよ」

 武雄の言葉尻が苛立っているのが解る。武雄も限界なのだろう。

「何だよ」

 今一度聞いても、何も言い返さない私に痺れを切らしたのか、武雄はそそくさとベッドから立ち上がった。もう寝る準備を済ませていたにもかかわらず、武雄は着替えを始めた。

「ちょっと出てくる」

 そう言って、振り向きもしない私の背中に言って出て行った。

 今日も、あのママのところ。

 そう思っても嫉妬心など微塵もなかった。清々した訳じゃない、ただ……ほんの少し苦しさから解放されただけ。

 私は静かに、櫛を置いた。

 本当なら、一緒にいる空間からでさえ逃げてしまいたいのに……このまま、誰にも悟られず消えてしまいたいのに……。

 そう思った時、義孝の顔が否応なく脳裏に浮かぶ。

「義孝」

 零れる呟きでさえ、愛おしい。

 こんなに焦がれるのは、あの日を知ってしまったから。

 お金に目が眩んだ訳ではなかったから。

 ずっと求めていたのが、私だけではなかったから……。

 きっと、武雄を前のように受け入れられない理由はそこにある。憎くて消してしまいたいのは周りの誰でもない。自分の前から誰かがいなくなる事が、例え憎い相手でも怖いのだ。

 あの日の義孝のように、愛する人を失っているから、尚更その思いは強いのだと思う。

 だから、本当に消してしまいたいのは自分自身。

 消えたいのは、弱い自分。

 私はギュっと拳を握り締めた。

「何だろう、私、言い訳ばかりしているみたい……これじゃ、昔も今も変わらない。自分の人生なのに、いつも誰かのせいにして、誰かを悪者にして……自分で選んできた事なのに……あの時だって、断ろうと思えばできたはずなのに、お父さんの病気のせいにして、自分の気持ちを押し殺して……今も嘘ばっかり……」

 そう呟きながら、今、自分が何をしたいのか考えた。

 消したい、消えたいじゃなくて、私は……逢いたい。こんな私でも逢う資格があるのなら、逢いたい。

 そんな気持ちが走り出したら、どうにも止まらなくなった。

「……義孝」

 私は、あの頃の感情を心の表にむき出して、躊躇いもなく家を出た。もう、自分の気持ちに嘘を吐くのは辞めよう。浅はかにも後先考えず、武雄がいない事をいい事に、そう思ってしまった。

 冷え切ったガレージに着いてすぐシャッターを開けると、止めてある車に乗り込んだ。空気が一層に冷えているのか、私の体は震えた。その震える手でエンジンをかけると、すぐさまアクセルを踏み込む。凍えそうな音がガレージに木霊すると、車は一気に、私の温かな思い出を乗せて走り出した。

 どこへ行けば義孝に会えるのか、答えは簡単だった。

 あの時、窓越しに呟いた義孝の唇を思い出す。そして、思い出が胸に込み上げる。

『君の好きな場所で待っている』

 きっと、そんな言葉だったと思う。あれから何日も経っているのだから待ってくれている保証はない。でも、それならそれで諦めようと思っていた。

 それが運命なら、逢えないなら諦めるしかない。そして、今の自分を受け入れるしかないのだと……。

 いろんな事を思いながら、私は、海に着いた。

 昔、義孝と一番充実した時を過ごした海。

 広くて暗い海岸に義孝を見つけるのは困難にも思えた。ましてや義孝がいるかどうかもわからないのに、この場所かさえもわからないのに。時間という溝が、二人の心にすれ違いを生んでいなければいいのにと願う。

 砂浜に車を止めてからどれだけの時間待っていただろう。その間、私はヘッドライトをつけたまま車を降りて、ずっと波の音に耳を傾けていた。寒さに凍てつく体は震えを増すけれど、それに勝る想いがあった。

 例え、義孝が来なくても、誰かを待っているという心は、家にジッとしているより遥かに温かく、穏やかだった。

 逢えるはずなどないと思いながらも、義孝が待ってくれていた時間に比べたら私なんて短いものなのだから……そう思った。

「でも……遅すぎたんだよね」

 私は小さく呟いて頬を濡らすと、車に戻ろうとドアに手を伸ばした。

「……っ」

 ふと、風に紛れて声が聞こえた。指先がドアから離れ、恐る恐る振り返る。

 そこには、暗い波打ち際を歩く人影が見えた。ライトの端に照らし出された影が、視界に刻まれる。

「義、孝?」

 私は思わずその人が義孝であると確認した訳でもなかったのに、体は勝手に駈け出していた。

「紫音なのか」

 だけど、その人は名前を呼んでくれた。

 懐かしい声で、優しい声で……私だけを見つめてくれる瞳に、再び巡り会った。

 頭で考えるよりも先に、私の体は吸い込まれるように、義孝に抱き付いていた。

「義孝……義孝……逢いたかった。本当は私もずっと逢いたかった」

 そう泣き叫ぶ私を、そっと義孝は包み込んでくれた。

 懐かしい抱擁に、私の涙が止め処なく溢れ出す。








    







               

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