〜 vol :20
私は今、一秒がとても長いと感じていた。
義孝といる時には感じない時間だ。それが今は、とてつもなく長い。
「あっ」
思わず声が漏れた。
トイレにこもってどれくらい経っただろう。とても長い時間、私は手の中にある妊娠検査薬を見つめていた気がする。
初めはずっと握り締めたまま、検査しようかしまいか悩んでいた。もし勘違いだったらショックかも、なんて思いながら、なかなか検査する事が出来なかった。でも、いつまでもこうして眺めている事も出来ない。確かめなければいけない、そんな意を決して、私は検査に対する不安をかき消すために、重い腰を上げた。
病院へ行って「妊娠ではない」と言われるよりはいい。そう思った。自分自身で確かめてからの方が、精神的にも軽いと思ったからだ。
でも今、検査終了窓にラインが浮かび上がると同時に、妊娠の陽性を示す窓にも、くっきりと赤いラインが入った事に喜びが隠しきれない。
「やだ、嬉しい……」
そっとお腹に手を当てると、涙が溢れてくる。
私の中に、新しい命が宿ったかもしれない。そう思うと、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
どうしよう、早く病院に行った方がいいのかな。
そう考えてからの行動は早かった。
検査する時よりも、確かなものに体が突き動かされる。
私はいつも加工場へは早朝から入り、午前中だけのパートだった。でも今日は、開院する時間を見計らって早引けした。
みんなには「どうしたの?」なんて心配されたけど、まだはっきりしない事には妊娠を告げられなかった。嬉しさを言えないもどかしさを募らせながらも「ちょっと体調が悪い」と、言って私は加工場を後にした。
それから、先生の「おめでとうございます」と言う言葉を聞くまで、浮足立っていた気持ちが、しっかりと地に着いた気がした。
現実の幸せに胸が溢れる。
私が……お母さんになる。
そう思うと、嬉しい反面、しっかりしなきゃ、という心構えが沸き上がった。
そして、誰よりも早く伝えたい義孝の元へ、気持ちだけが走り出す。
毎日、加工場で働く私は、午後には港へ足を運ぶのが日課だった。でも今日は、いつもよりも早く、義孝が帰る港に辿り着いた。
冬の仕事は厳しい。そしてここは特別、手の悴み方は半端ではない。いつものように海を眺めながら、揉み手に息を吐きかけるが、手袋を通して、
それでも、仕事が終わって義孝を待つ、この時間がとても大切だった。何よりも、今日は一人じゃない時間が更に愛しい。
早く帰って来て……気持ちばかりが先急ぐのに、時間はいつもよりもゆっくりと感じる。
義孝を待つ事に胸が弾み、手の痛みなど吹き飛んでしまう。
なんて伝えよう、どんなに喜ぶだろう。そんな事を思っているうちに、遠く視界に、義孝の乗る船が映った。
「帰ってきた」
自然と言葉にも生が宿る。真っ直ぐに私に向かって帰ってくる船を眺めて、私は緊張を解す為に深呼吸をした。
船が港につくなり、船員がこぞってその日の荷を下ろし始める。その姿はどの男の人にも活気があった。その中で笑う義孝を見るだけで、冷たい頬さえも紅潮する。
義孝の姿を見つけるだけで、今日も幸せを噛みしめる事が出来る。
「おかえり」
その一言に、義孝の顔が綻ぶ。
「ただいま」
白い息に混ざる声は、私の心を安心させるのに十分だった。
一つ一つの仕草が脳裏に焼きついて、思い出を作り上げていく。
「おぅ、よっちゃんは今日はもういいぞ」
船長の譲二さんが、空に響き渡るほどの声で言った。
「はい、ありがとうございました」
義孝はそう言って帽子を取ると、深々と頭を下げた。
「おぅ、また明日な〜」
手を振る船員に、私も頭を下げる。
義孝の役目は荷を下ろすまでだった。みんな、義孝が絵を描いている事を知っているし、漁師が本業でない事も承知だ。何もかもに恵まれて、怖いくらい。
「行こうか」
言いながら差し出される大きな手。
私は「うん」と大きく頷き、義孝の手を握った。この手を、私だけじゃなく、小さな手も握る事になるんだろうな。そう考えると本当に嬉しくてにやけてしまう。
「何、今日は随分と機嫌がいい?」
義孝が不思議そうな顔をして覗き込んだ。
私はにやけた口元を押さえ「ふふ、ちょっとね」と、はぐらかした。
どう切り出そうか、どんな顔するのか、考えるだけで楽しい。
この嬉しさを伝える、今日は特別な日。
ううん、私にとっては、毎日が義孝と過ごす特別な日なんだ。
「ホントにどうしたの? なんで笑ってるの?」
「あのね、嬉しい事があったの」
「へぇ〜何?」
「あのね……私……」
「うん」
「えっと……赤ちゃんがね、出来たの」
私の声が届いた瞬間、義孝はぴたりと足を止めた。
「え? 今、なんて言った?」
思った以上に義孝は目を見開き、私をまじまじと見つめてきた。
「だから、赤ちゃんが出来たって言ったの」
面白いほど、見る見るうちに義孝の顔には笑顔が溢れた。
「ホント?」
言いざま、私の両肩を強く掴む。
「うん」
「ホントにホント?」
「うん、本当だから安心していいよ。嘘なんかつかない」
一瞬だけ更に強くなった指の力が抜けると、その手を離した義孝は、両手を高々とあげて叫んだ。
「やったぁ――――っ!」
まるで、子供のように形振り構わずはしゃぐ姿に、私の心も弾んでいく。
「やだ、義孝、恥ずかしいよ」
「やったぞぉ――――っ!」
私の声なんかもう聞こえてない。義孝は海に向かって何度もそう叫ぶと、不意に私に振り向いた。先ほどとは打って変わり、硬い表情で見据えてくる。思わず私まで硬直してしまった。
「な、何?」
どこかもじもじとした義孝に、私は首を傾げた。
「あ、あのさ……」
「何? どうしたの?」
義孝はおずおずと一歩を踏み出し、私の肩にそっと、震える両手を添えた。
「キス……してもいいのかな?」
「え?」
あまりにも改まった態度に、妙に恥ずかしさが増す。
「いや、その……あの……ほら、キスって胎教に、いいとか悪いとかわかんないし」
あまりにも真剣に言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。
「何言ってんの? キスが胎教に悪いとかないでしょ。それに、まだ胎教とか早いし」
「え、そ、そうなのか?」
頷く私を見てホッとしたのか、義孝は優しく唇に触れてくれた。そっと触れる唇に、大切にされているのだと感じる。
再び冷たい風が、離れた唇を掠める。まだ触れていてと唇が強請っている。
「俺……いつも新鮮なんだ」
「……うん」
真っ直ぐに見つめられる度に、私だって毎日が新鮮でドキドキする。何もかも、互いの心を見透かしたように重なる。
「紫音に触れる度に好きになっていくっていうか、毎日、紫音に恋してるみたいだ……キスひとつがいつも、その、愛しいっていうか」
そう言って、また温かな唇を重ねた。心の奥まで染み入るようなキスを、何度もくれる。
「いや、やっぱダメかも」
そう言って義孝は、すっと私から離れた。
「え?」
赤らんだ頬を隠すように、義孝が顔を背けたものだから、私はその顔を覗き込むように言った。
「なに急に、どうしたの?」
「いや、だって、無理……俺、止まらなくなる」
義孝が、唇を手の甲で隠し呟く。その意味に、私の鼓動が加速していく。
「やだ、義孝ってば何考えてるの? ここで?」
「いや違う、ごめん、ここでって言うか。だって紫音、可愛いし、じゃなくて、キスしたら無理っぽいって言うか……理性が、その……でも、やっぱ今は大事な時期なんだろう。だったらまずいっていうか、赤ちゃんビックリしちゃったり……とか」
しどろもどろになる義孝の方が、私には可愛いと思った。
「あの、赤ちゃん出来たってのに抱きたいなんて、いや、違……あれ……俺ってバカだ。ごめん、どっちも大事なんだけど、あ〜」
義孝は項垂れながら自己嫌悪しているみたい。でも、そこがまた、あまりに素直で体の芯をくすぐられる感じ。
「可愛い」
心の声が思わず出てしまった。
「ごめん、何かいつもそんな事しか考えてないみたいで、ごめん」
申し訳なさそうに言う義孝の腕に、私は絡みつくように腕を組んだ。
「何謝ってんの? 私、義孝のこと好きなんだよ。だから求められる事で安心する」
「紫音」
「だってそうでしょ? 求められなくなった方が怖いよ」
「そんな事、ないから……これからもずっと、紫音が傍にいてくれればいいから」
「私も……でも、大事な時期って言うのは当たってるから、今は我慢しようか、お互いに」
そう言って笑うと、義孝も同じようにはにかんだ。
義孝の言葉は本当に素直だ。それが男の人の本能だって事を隠さない。だから、好き。
どんな事でも言葉にして伝えてくれる。それが、とても大切な繋がりをうむ事も知っている。
もっと大切にしたい、大切されたいって思う、この気持ちが真実である証しなんだ。