〜 vol :29




次の日の朝、母は約束通りやって来た。それでも、私はまだ、受け入れる事が出来ずにいた。

 

いつも通り仕事へ行く。でも母は、身支度をする私を横目に、結絵との時間を過ごしたいと言って世話をする事を望んだ。

 

私は少しでも母が満足してくれるなら、と思い承諾する。

 

もしかして、結絵を連れて帰ってしまうかもしれないとも思ったけど、母を信じる事を選んだ。

 

私から結絵を奪う事がどんなに残酷な事か、母なら解ってくれると信じていたからだ。

 

仕事から帰ってくると、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 

母が、夕飯の支度までしてくれていたようだった。玄関を開けると、嬉しそうに結絵が駆け寄ってくる。

 

「きょうね、おばあちゃんに、おもちゃかってもらった!」

 

そう言って嬉しそうに笑う結絵の姿を見て、ホッとしたのも事実だ。

 

「そう、良かったね」

 

「うん!」

 

 母が台所から顔を出した。

 

「あ、お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

 込み上げる懐かしさに胸が軋む。

 

「夕飯作っておいたから二人で食べなさい」

 

「二人で? なんで、お母さんも一緒に食べればいいじゃない」

 

「いいのよ、私は浜村に帰ってからあなたと食べるって決めたの」

 

 その言葉が重くのしかかる。

 

「……そう」

 

 母はエプロンを外し、帰る準備に取り掛かった。

 

「また、明日も来るわね、結絵」

 

「うん!」

 

 結絵の髪を撫で、母は私を見つめた。

 

「昔と違って諦めが悪くなったの」

 

 そう言って笑った。

 

 目尻の皺が深く、年を取ったと感じさせる。更に、私は苦しくなる。

 

 そして、次の日も、その次の日も母はやって来た。

 

あまり睡眠がとれていないのは母も同じだったようで、日に日に互いの疲れも増しているようだった。

 

 

    ◇

 

 

「帰ってあげたら?」

 

「え?」

 

 ここ数日、仕事に集中できない事を、小百合さんに話してあった。

 

「帰るって、でも」

 

 小百合さんは心配そうに、作業をする私の手を止め、握った。

 

「実を言うと私にはさ、親がいなんだ」

 

「……え」

 

「だから羨ましいって言うの? あ、でも、よっちゃんの事を思うと、紫音ちゃんの辛さって計り知れない……けど、親って大事だよ。私は親孝行出来なかったから、してほしいって言うか……」

 

「小百合さん」

 

「ずっと後悔してたの……紫音ちゃんに酷い事を言った事……赤ちゃんなんか死んじゃえって言った事……後悔してる」

 

 握る手が、更に強くなった。

 

「もしかしたら、その言葉がよっちゃんに返ったのかと思うと辛くてさ……」

 

「小百合さんのせいじゃない」

 

「でも、辛かった……将ちゃんが生きててありがたいとは思うけど、でも本当に辛くて……」

 

 目に涙を浮かべながら、小百合さんがきゅっと下唇を噛締めた。そして、私の手を放し、涙を拭う。

 

「でも、お母さんだって辛いと思うんだ。何かうまく言えないけど、ここによっちゃんの思い出がある以上に、向こうにもよっちゃんの思い出はあるんでしょ」

 

 義孝との思い出……。

 

 私は胸に手を当て、ギュっと握りしめた。

 

「どこにいても紫音ちゃんの胸にはいつもよっちゃんが生きてる……でも現実には結絵ちゃんもお母さんも生きてる、目の前にいる。何が幸せかなんてわからないけど、でも、今お母さんを幸せにしてあげられるのは紫音ちゃんだけだと思う」

 

「……お母さんの、幸せ」

 

「そうだよ、どこにいたってよっちゃんの記憶が紫音ちゃんから消える訳じゃないじゃない。例え、結絵ちゃんから消えても、何度でも話してあげればいいんだよ。伝えてあげればいいんだよ」

 

「私が……」

 

「そう……だから、今は、お母さんの事、考えてあげてもいいと思うんだ。もし、上手くいかなかったらここに戻ってくればいいよ。紫音ちゃんの返る場所は、ここにもあるんだから……」

 

 そう言われて、じんと胸が熱くなった。

 

 私の帰る場所がある……そう言われただけで、スッと胸の重みが消えた気がした。

 

 

     ◇

 

 

母がここに来て一週間。毎日のように母はやってくる。でも、あれ以来、一緒に帰ろうとは口にしなくなっていた。言い続ければ頑なに拒む事を知っているからなのか……。

 

きっと今日も来るはず。

 

私は、まだ布団で眠っている結絵を起こさぬよう、そっと布団から抜け出すと、既に尋ねて来て玄関の外に立っている母に歩み寄った。

 

「おはよう、紫音。今日はね、結絵とお菓子を作ろうと思って、ほら」

 

 そう言って母は、両手に持った買い物袋を目の前にかざし笑った。

 

私は、黙ったまま母を見据える。

 

「紫音?」

 

何も言わない私に、母は不思議そうに聞く。私は、ゆっくりと頭を下げた。

 

「また、ご迷惑をかけます。よろしくお願いします」

 

「え? ああ、結絵の事? それなら別に苦痛じゃないし、毎日楽しいのよ」

 

 母の言葉に私はゆっくりと首を振った。

 

 そして。

 

「浜村に……帰ります」

 

そう言った時、母の頬に涙が伝った。震える手から、買い物袋を地に落とすと、そっと子供の頃のように私を抱き寄せる。

 

温かい母の体温が伝わってくる。

 

「ありがとう」

 

その声は、やはり震えていた。

 

ありがとう、だなんて私が言う台詞なのに、やっぱり母の愛情にはまだまだ勝てない。

 

私は、その温もりを両手で包み込んだ。

 

 

    ◇

 

 

その日は、今までお世話になった人達に挨拶回りをし、義孝の生きていた証として描きためた絵を無償で配った。でも、義孝の遺作になった『紫の海』の絵だけは、私が持ち帰る事にしたのだ。

 

手放す訳にはいかない。絶対に守りたい絵だった。

 

そして、荷物もそんなにあるわけでもなかったから身の回りの物をある程度に荷造りし、心変わりをしないうちにと、その日に結絵を連れ、母と共に浜村へと帰った。

 

誰の出迎えも受け入れる気は更々なかった。と言うより、受け入れてもらえる訳がないと思っていた。だから、誰もが寝静まった夜中に帰宅した。

 

なのに、武雄が居間に明かりをつけて座っているのを目の当たりにした時、自分の家に帰って来た事に、やはり計り知れない抵抗が心に重くのしかかった。

 

「た、ただいま……」

 

私は腕の中で眠っている結絵を起こさぬよう小声で、座っている武雄の背中に言った。だが、武雄は何も言う事もなく、ただ黙々と酒を浴びるように飲んでいるだけだった。

 

母はそっと私の肩に手を置くと、元いた私の部屋ではなく、今日はとりあえずここで寝なさい、と客間に案内してくれた。

 

武雄は私達が帰ってくるのを待っていたかのように、私が客間に入るなりに居間の電気を消し、何年か前までは夫婦の寝室であった二階へと上がって行った。

 

怒鳴るわけでもなく罵るわけでもなく、何も言わない武雄に不気味さをも感じていた私はとても胸が苦しくなった。

 

裏切った私をとことん追い詰める言葉を吐き下して欲しい、暴力を振るわれたって私はそれだけの事をしでかしてしまったのだから覚悟もできている。そう思っていた。なのに、ここにいたのは優しいままの武雄だったのだ。

 

責めてくれた方がまだ心は楽なのに。

 

そんな私の気持ちがわかっているからこそ、武雄は何も言わないのだろうか? 何も言わない事が私への怒りなのだろうか? 武雄はなぜ、浜村の家にしがみ付いていたんだろう。

 

いつのまにか、私は眠ることなく朝を迎えていた。

 

まだ外は薄暗い早朝、武雄が仕事場へと降りて行く足音が聞こえた。

 

私は布団の中で目を開けたままその音に耳を傾けた。そして、ゆっくりと体を起こし、まだ眠る結絵に布団を掛けると、そっと客間の襖をあけた。

 

仕事場へと続く廊下をゆっくりと歩き出した私は、突き当たりの厨房をガラス戸越しに覗き込んだ。何もなかったように、数年前と変わらぬ仕事振りを見せる武雄の姿を眺めていると、父の面影と重なる。

 

私はハッとして瞼をこすり、もう一度武雄を見た。その時、武雄は明らかに私に気付た様子だった。一瞬だけど目が合った私達だったが、武雄はすぐさま視線をそらしたのだ。

 

居た堪れなくなり、小さく洩らした溜め息と共に、私は厨房を後にした。

 

私にはまだ、店に立ち接客する勇気が持てなかった。

 

浜村に帰って来ても、暫らく結絵といつも客間に身を潜めていたのだ。遊び盛りの結絵にとっては窮屈だったかもしれない。だからといって表で遊ばせる余裕さえ心にはなく、時折、人気の少なくなった時間を見計らっては裏庭で結絵と外の空気を吸っていた。

 

 

     ◇

 

 

そんなある日、浜村が定休日の午後。

 

洗濯物を干し終えて、いつものように客間へと戻った私は、昼寝をしていたはずの結絵がいない事に気付き、慌てて台所に立つ母の元へ走った。

 

「お母さん。結絵がいないんだけど知らない?」

 

「えっ? 結絵が?」

 

「そう、ちょっと目を離した隙に……」

 

私はそう言いながらもハッとして鼓動が高鳴った。

 

「まさか、武雄さんが……?」

 

「ああぁ、そうかもしれないわね」

 

母はあっけらかんと言った。私の動揺が伝わっていないのか?

 

「何をのん気に……武雄さんはどこ?」

 

「さぁ……タバコでも買いに行ったんじゃないの?」

 

「結絵と?」

 

「いいじゃない。武雄さんも言ってたわよ。いつもいつも遊び盛りの子が家の中でジッとしているのは可哀想だ、ってね。だからきっと武雄さんよ、その内帰ってくるでしょ」

 

「そんな事言われなくてもわかってるよ。だからって何も言わないで連れ出すなんて」

 

「何をそんなに慌ててるの?」

 

母は洗い物をし終わった手を前掛けで拭きながら振り向いた。

 

「武雄さんが結絵に何をするって言うの?」

 

「な、何もしないわよ、きっと……」

 

「だったら黙って待ってなさいよ」

 

母は私に少々喝を入れる口調で言った。私はそれ以上何も言えなくなり、ただ二人の帰りをヤキモキしながら待った。

 

何度も玄関と客間を行ったり来たり気が気ではなかった。あの武雄が結絵に何かをするなんて考えもしない、と言いたいところだったが、武雄にとって結絵は目障りな存在のはず。自分の妻が駆け落ちして出来た子供なのだから、いくら武雄でも憎いはずなんだ。

 

ああぁ、やはり帰ってくるべきじゃなかったんだ……そう後悔している時、客間にいた私の耳に玄関を開ける音が聞こえてきた。

 

私はとっさに玄関まで駆けだした。だが、私の心配などよそに、そこには満面の笑顔で結絵が武雄の腕に抱かれていた。

 

「あ……ごめん。結絵ちゃんがあまりにもつまらなさそうに一人でいたから……」

 

私に言われる先に武雄が申し訳なさそうに呟いた。

 

「え? い……いいのよ。ありがとう」

 

私はそう言うしかなかった。

 

武雄を責める事も、権利も私にはないのだから。何より結絵のこんな嬉しそうな顔は暫らく見ていなかった自分が情けなくさえ感じた。自分のした事を棚に上げて、武雄の行動に苛立った事にも恥かしくなった。

 

「オジちゃんにね、これ買ってもらった」

 

結絵は無邪気にもそう言いながら玩具を私の目の前に見せて笑った。

 

そして、結絵は武雄を見ると恥ずかしそうに舌を出し、

 

「あ、お父さんって呼ぶんだっけ?」

 

そう言ったのだ。

 

「えっ?」

 

私は結絵の言葉に面喰い、すぐさま武雄に「どう言う事?」と聞き返した。武雄は少し気まずそうに下を向きながら結絵をおろすと、靴を脱ぎ、無言のまま居間へと向かった。

 

それを傍で見ていた母が、

 

「いいもの買ってもらったんだねぇ……お婆ちゃんにも、お部屋行って見せて頂だい」

 

と、結絵を呼び、客間へと連れて行った。

 

私は結絵を見届けた後、武雄に付いて居間に入った。武雄は、いつものテーブルの定位置に付きタバコをふかしている。私はその目の前に、テーブルを挟んで座るや否や口を開いた。

 

「私達が帰って来てから、まともに話をするのは初めてね」

 

「ああ」

 

「お父さんってどう言う事?」

 

「どうって……そのままだよ」

 

武雄は一筋煙を吐き出しながら言った。

 

「そのままって」

 

「お前の言いたい事はわかってるつもりだ。結絵ちゃんの父親は一人だって言いたいんだろう」

 

「わかっているなら……」

 

「ああ、わかってるよ。お前には俺が目障りだ……だろ?」

 

「別にそこまで言ってないじゃない。浜村を今支えているのは現に武雄さんだもの。私は何も言える立場じゃない」

 

「俺が浜村の看板に執着しているとでも言いたいのか?」

 

「そんな事、ひとことも言ってないっ」

 

 私は荒々しくテーブルを両手で叩いた。武雄は、灰皿に煙草を押し消す。そして、溜息をひとつ零した。

 

「俺はただ……ただ結絵ちゃんがあの男をパパと呼んでいるって聞いたから、じゃあ、オジさんの事はお父さんって呼んでもいいよって言っただけだ」

 

「だから、その理由を聞いてるの」

 

「特に理由なんかないさ。本当に、ただ結絵ちゃんが可哀想だと思っただけで」

 

「可哀想? 結絵が……?」

 

「ああ。結絵のパパはもうお空の星になったんだ、だからもう帰ってこないんだよ。って言ったから……そう言ったから」

 

武雄は辛そうに目を伏せて言った。

 

「だから、パパにはなれないかもしれないけど、俺がお父さんにはなれるかな……って。それだけだ」

 

「結絵が……」

 

私は心にポッカリ穴が開いたような感情に押し流された。

 

自分でも認めたくなかった現実に、小さな結絵はもう気付いている。そう思うだけで、とてつもなく悲しかった。

 

結絵に全てを話したわけではなかったのに、何もわからないと思っていたのに。

 

義孝はもう帰らない……そう、結絵はわかっていたなんて。









    






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