〜 天使の羽根 〜     No.18




「……嘘」

 しかし、辿り着いたそこには、何もなかった。

 かろうじて残っているのは、まっ黒に燻る炭のような柱ばかりだ。

 穂高は、震える腕でキヨをあずみに預けると、元々あったであろう玄関へ足を踏み入れた。

「どこかに避難しててくれればいいんだけどな」

 その後を追うように一歩を踏み出したあずみに「お前は来るな」と、穂高は、振り向かないままに制止させた。

「キヨちゃんとおばさんと、一緒にいてやってくれ」

 そう言って、一人奥へと入っていく。

 踏み込む度に、足下から舞い上がる煙、閊えると今にも崩れ落ちそうな柱を避け、穂高は慎重に進んでいった。

 やがて、何もなく庭先だった場所に出た。

 畑は全て使い物にならない程だ。唯一、残っている物と言えば、石で造られた塀のみで、それも半分は破壊されている状況だった。

「ここには、いないって思いたいよな」

 そう呟いた瞬間だった。

 穂高は、全身に鳥肌が立つのを覚えた。逆流して行く血液が、一瞬にして脳天までかけ上がっていくように、震え始める。

 穂高が凝視して逸らせない視界に映ったのは、重なるように横たわっているものだった。残された塀の角に、寄り添うようにあるそれは、明らかに人の形をしている。

「智子っ!」

 背後から轟く叫び声に、固まっていた穂高は飛び上るように驚いた。

「でも、まだ……智子さんって決まった訳じゃ……」

 穂高を横切り、駆け寄ろうとする豊子を止め、そう言ってはみるものの、震える声が間違いではないと断言しているようだった。

 二人と見えるその体は、重なってはいるものの、下になっている部分は無傷に近かった。そこからはみ出る衣服は、間違いなく智子が着ていたものだったからだ。

 必死に穂高の腕を解き、一心不乱にその焼け焦げた遺体に縋った豊子は、重なっていた二人を離す。そして、現れた人が、紛れもなく智子だった事に愕然とする。

 守られた智子の顔は、眠っているかのように奇麗だった。

 大事そうに何かを懐に抱え、更に大事そうに智子を守るように重なっていたのは道彦だろう。

「智子――――――っ!!」

 豊子は、枯れたはずの声を振り絞り、空を突き抜けるほどに名を呼び続けた。

「守るって、こういう事かよ……生きて、幸せにしてやれないのかよ……」

 穂高は悔しそうに両拳を握り締めた。

「でも、道彦さんは守ってくれて」

 いつの間にか、あずみは寄り添うように穂高の隣に立ち呟いた。だが、穂高には納得の出来る言葉ではなかった。

 血が滲む程に握り締めた拳で、穂高は石塀を強く叩きつける。

「こんなの守ってねぇだろ! 死んじまったら終わりなんだよ! 何も守れてねぇんだよ!」

 何度も何度も、死んでいった人たちの痛みに比べたら他安いと言わんばかりに、穂高は拳を打ちつけた。

 あずみは、やがてその腕を掴み止める。

 そして、穂高の壊れそうな心も体も、全てを包み込むように、背後から抱き締めた。

「でも、こんな時に非常識だって思われるかもしれないけど……あたしは道彦さんが穂高を守ってくれたと思ってる!」

 そう言って、更に抱き締める腕を強くした。

「あずみ?」

「あたし、穂高が死んじゃったら生きていたくないもん! あの時、智子さんを助けに行ったのが穂高だったらって思うと、もしかしたらって思うと怖いもん!」

「……あずみ」

 穂高は、目の前にあるあずみの腕に、そっと掌を重ねた。

 今まで泣いた事などなかった穂高が、その涙を止める術を知らない程に泣き続けた。

「悲しいけど……どこかでホッとしてる自分が醜く感じるよ」

 穂高の背中で、ポツリとあずみは、申し訳なさそうに呟いた。穂高は、壊れそうなほど悔しそうに奥歯を噛締める。

「みんな守れるなんて思ってない……でも、守りたかったんだ。無理だって事も解ってる。でも……生きてて欲しかった」

「穂高……」

「でも、同じなんだ……俺だって……あずみが生きてて良かったから……あずみさえ生きててくれれば、そう思った自分がいるんだ」

 ゆっくりと互いに向き合い、生きている事を確かめる。見つめあう瞳が、まだ自分を映す事に安心する。

「帰ろう……あずみ」

 再び誓って、穂高は優しくあずみを抱き締めた。



     ◇



 日が高くなるにつれ、町の中はざわめきを増した。

 空襲で死んでいった人たちを、生き残った人たちが集めて回る。そんな中、やはり家族を失った悲痛な叫びが、止む事はなかった。

 智子も道彦も例外ではなかった。

 死んだ人たちは全て、山のように無造作に集められ、荼毘に付されるのだ。

 地面に座り、魂が抜けたように朦朧とする豊子は、傍らにキヨは大事そうに抱え、髪を撫でていた。

「……智子、よしよし」

 そう言いながら、豊子の瞳はいつも空を眺めていた。

 キヨは、何もかも理解した上で、豊子の腕の中で静かに寄り添っている。

 そんな二人を見つめながら、穂高とあずみは夜になるのを静かに待っていた。

 なぜなら、今日が満月だからだ。

 この時代に来た日と同じ、満月の夜に、あの川に飛び込めば何もかも元通りになると信じていた。確実な訳ではないが、それだけがこの時代で生きる糧になっていた事は確かだった。

「豊子さん……キヨちゃんを智子さんだと思ってる」

 そっと呟くあずみの言葉に、穂高はキヨを見据えた。

「ああ」

「キヨちゃんも、何も言わないね」

「ああ」

「あんな小さな体で、何度も空襲にあって……辛くないのかな」

 穂高は、そっとあずみの肩を抱き寄せた。小刻みに震える肩の振動が、否応なく穂高に伝わる。



     ◇



 薄暗い空に、満月が顔を出した。

「もう少しの辛抱だから」

 誰にともなく呟いた穂高は、この現状から早く逃げ出したかった。

 豊子とキヨは、焼けた家から離れる事はなく、一日中、同じ場所に座っているだけだった。

 心配じゃないと言ったら嘘になる。だが、何もしてやる事が出来ない今、ただ帰る事だけを願って耐えていた。

 そして、ようやく夜がきたのだ。

 涙に濡れて眠るキヨを見つめ、それでも穂高はまだ腰を上げる事が出来なかった。

 だが。

「行きなさい」

 静かな闇に溶け込むように、そう言ったのは豊子だった。

「あたしたちの事はいいから……帰りなさい。この時代に生まれた運命だと思って受け入れるよ。でも、少しでも幸せに助かる命があるのなら、あなたたち二人がこれからも生きていけるなら、別れる事も寂しくない」

「豊子さん……」

 そう言って、あずみはすすり泣くしか出来なかった。穂高は、血が滲む程にギュッと唇を噛締めた。

――ごめん。

 そう思って、穂高は豊子の言葉に押されるように、あずみの手を引き立ち上がった。

 あずみの目は「二人をおいて行けない」と言っている風だった。しかし、気持ちは同じ穂高だったが、心を鬼にして、その目を見て見ぬ振りをして歩きはじめた。

 あずみは、引き連れられるように、豊子の目の前を横切る。だが、足を止める事もやはり怖かったのだろう。

 涙を拭い、あずみは穂高を選んだのだ。

 足早に橋に向かって歩き続ける。 

 まだ、燻る臭いが鼻をつく。焦土と化した土地にいつまでもいる訳にもいかなかったが、生き残った人々はほとんどが、暗闇の中で途方に暮れていた。 それでも懸命に一日中、家族を探しまわっている人もいた。自分も怪我をしていると言うのに、形振り構わず歩き続ける。

 どこからともなく聞こえる苦しそうな呻き声に、穂高もあずみも耳をふさぐしか出来なかった長い一日が終わろうとしている。

 それでも、喜ぶ心はない。

 辛い選択だったかもしれない。いくら、自分たちの時代ではないとはいえ、逃げるのではないかと言う気持ちが心を締め付けるのだ。

「……穂高」

 静かに名を呼ぶあずみだったが、穂高は闇雲に歩き続けた。

 心が痛いから、悲しいから、何も見ないようにただ目指す場所を見据える。

 既に帰る場所に人気はない。

 誰もがこの現状を見たくなくて、どこかへ行ってしまったのか。それとも、家族を探しに行ったのか。あるはずのない家に帰ったのか。

 橋の周りは、しん、と静まり返っていた。

 空襲でも落ちる事がなかった橋の真ん中まで来た二人は、欄干に手をかける。

「ここまで、長かったな……」

 穂高の言葉に、あずみは微かに頷いた。

 だが、あずみは下を覗き込んで足が震え、後退りする。

「やっぱり出来ないよ。穂高」

 その恐怖は、飛び降りるという行為にはなかった。下には、まだ幾人かの遺体が浮かんでいる。飛び込むという恐怖以外の感情が心を抉る。

「でもやるしかない。大丈夫、前もそうだったろ? 水に落ちる前に俺たちは飛ばされた、だから、今度もきっと」

 穂高は、言い聞かせるように言うと、あずみの両肩に手を乗せ見つめた。

「大丈夫」

「でも、帰れる保証無い……」

「それでもやるしかないんだ、一か罰でも飛び込むしかないんだよ」

 躊躇うあずみの瞳を、穂高はしっかりと見据える。

「もし帰れなくて、この時代に生きるしかなくなっても、俺はお前を守っていく……どっちにしても離れないから、大丈夫、やってみよう」

 あずみは、その力強さに、半ば諦めの表情でこくりと小さく頷いて見せた。

 穂高は「よし」と呟き、欄干に上る。

「あずみ、下を見るな、上を見ろ……奇麗な満月だ」

 言われてあずみは、ゆっくりと夜空を仰いだ。

「……あたしたちが来た日と同じなのは、あの満月だけだね」

 少しは気持ちが落ち着いただろうあずみに、穂高は胸を撫で下ろす。そして、恐怖に敷き詰められた気を紛らわせるように笑う。

「あっちに帰ったら、みんなに何て言おうか」

 あずみは、ゆっくりと穂高を見つめ返した。

「そうだね……誰にも真似出来ない事だもんね」

「自慢してやろうぜ」

 欄干に立ち上がり、バランスを整えた穂高は、あずみに手を差し伸べた。その差し出された手を握り、あずみも同じく欄干に上る。

 いよいよだ、そう思い穂高は、あずみの体を支えるように抱き寄せた。

「それから……一ヶ月遅れだけど、誕生日プレゼントも渡したい」

 その言葉に、あずみは思い出したように笑った。

「そっか、まだ貰ってなかった」

 クスクスと漏れる笑みに、穂高自身も恐怖は和らぎ、安堵を感じたようだ。

「それから……」

 掌の力を強め、穂高は言葉を詰まらせる。

「穂高?」

 心配そうに聞くあずみを見て、穂高はフッと小さな溜息を洩らした。

「いや、帰ってから言うよ」

 優しい穂高の眼差しに、あずみの恐怖心も絆されたようだった。

 互いに互いを想い合い、確かな存在だと確信する。

「穂高って、こんなに頼れる人だったっけ?」

「お前がそうさせてるんだよ」

「え?」

「お前だから……あずみだから俺は強くなれる」

「……穂高」

「あずみ、目を閉じろ……行くぞ」

「うん」

 そう、意を決した時だった。

「お姉ちゃん! お兄ちゃん!」

 息せき切って駆け寄ってくる姿に、思わず二人は飛び込む体制を解き振り返った。

「キヨちゃん……」

 その後ろから、豊子も懸命に追いかけて来ている。

 元の時代へ帰る事を黙って出てきた二人だったが、駆け寄ってくるキヨの勢いは、別れを言う為ではないとすぐに解った。

「我儘言わないの、二人は未来に帰るんだよ」

 ようやく豊子は追いついたようで、キヨの襟ぐりを掴み、引き寄せると抱き締めた。

「やだやだやだ!」

 それでもキヨは、必死に豊子の腕の中でもがき暴れる。

「みんなの分まで、ここで母ちゃんと二人で生きよう、ねっ!」

「やだやだやだっ!」

「もう誰もいないの! お願いっ!」

「だってキヨは智子姉ちゃんじゃないもん!」

「解ってるよ、ごめんね、解ってるんだよ」

 いつも我儘を言わなかったキヨが、今は自分の気持ちを曝け出していた。どんなに今まで辛かったか、寂しかったか、悲しかったか。小さな体から弾き出される、大きな叫びが物語る。

「行かないで! 行かないで!」

 その言葉に、あずみは堅く瞼を閉じた。

「早く行って! キヨだけじゃない、あたしの心が変わらないうちにっ! 早くっ!」

 豊子は必死にキヨの体を抑え込んだ。嫌がるキヨは、豊子の腕に齧りつき、懸命に腕を離れようとしていた。それでも、豊子はキヨを離さなかった。

「キヨ、あんたはこの時代の子なの……お願い、もう智子って呼ばないから……あたしを一人にしないで……」

 穂高は、あずみを抱き締める腕を更に強くした。

「もう……振り向くな、ここは俺たちの生きる場所じゃない」

「穂高……」

「どんなに辛くても……残る場所じゃないんだ」

「お姉ちゃん! お兄ちゃん! 行かないでぇ――――っ!」

 豊子の腕の中から、キヨは叫んだ。悲痛な想いが二人の心に突き刺さるも、決して穂高は振り向かなかった。

 あずみの肩を強く抱き寄せ、勢いよく欄干を蹴り出す。

 後ろ髪を引かれる思いを残して、穂高とあずみの体が宙を舞った。

「行かないでぇ――――っ!!」













    
      

               

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